励まし

どうすれば友が元気に喜んで、進んでいけるか。

分け隔てなく、励まし合い、支えあう。心と心の絆が大事である。
大丈夫?元気?頑張ってね!と、常に励ましの言葉をかけ合っていきたい。
心が通えば力に変わる。力を出せば必ず道は開けてくる。
また人を励ますことは、自分自身をも勇気づける。
励ましは人を変え、自分を変えるのである。
大切なのは、心を軽くしてあげることだ。
強く明るくしてあげることだ。
たとえ会えなくても、電話の一言で、目の前の壁が破れることもある。
一通の置き手紙が、その人の人生を変える場合だってある。
相手の言うことに、じっと耳を傾ける。じっくりと話を聞いてあげる。
それだけでスッキリする。心が軽くなる場合が多い。
聞いてあげること自体が、大切なことである。
励ましとは、安心と希望と勇気を与えることである。
相手の生命を燃え上がらせ、何ものにも負けない力を引き出す、精神の触発作業である。
励ましの本義は、相手の幸福を願う心にある。
追伸
移ろう季節は大自然のリズム。苦難の人は冬のごとし、冬は必ず春となる。
悩んだ時、壁にぶつかった時、励ましてくれる存在がどれほど大きな力にことか。
悩める友に勇気と希望の声を届けていこう。

ちょうっといい話2

日本人の心意気を、その目でしっかりと見た敵軍大将は
生涯その姿を忘れることはなかったのであろう・・・・。
硫黄島の戦いで1か月近くにも及ぶ激戦を各地で繰り広げ
日本軍の抵抗により多大な犠牲者をだしたアメリカ軍
そんなアメリカ軍がついに日本軍から硫黄島を占領した翌3月16日
擂鉢山(すりばちやま)近くの岩山の穴には片足を失った日本軍の陸軍少佐がいました。その陸軍少佐は降伏の白いハンカチ掲げて岩山の穴かれ出てきて
アメリカ軍に向かって言いました。
「司令官はいないか。穴の中にはまだ有能な30名の青年達が残っている
彼らを日本の為、世界の為に生かしてやりたい。私を殺して彼らを助けてほしい・・・・と
この少佐に引見した第5艦隊レイモンド・スプルーアンス司令官は
「お前も部下も助けてやろう」と言うと少佐は「サンキュー」と言いながらついに
ついに息を引き取りました。
その後、アメリカ軍は青年達が残っている穴の中に煙草や缶詰めを投げ入れ
穴から出てくるように何度も勧告します。
しかし彼らは全く応じずに穴から抵抗を続けました。
5月になっても日本兵達は抵抗を続け、やがて何名かが餓死し
最後に残された者は手榴弾で自決して果てました
その爆発音で、スプルーアンス司令官自身が穴に行くと
穴の入り口に英語と日本語で書かれた1通の手紙が置かれていました。
「閣下の私たちに対する御親切な御厚意、誠に感謝感激に堪えません。閣下より頂きました。煙草も肉の缶詰めも皆で有難く頂戴致しました。御勧めによる幸福の儀は、
日本武士道の習いとして応ずる事ができません。最早、水もなく食もなければ
十三日午前四時を期して全員自決して、天国にまいります
終わりに貴軍に武運長久を祈って筆を止めます。
昭和20年5月13日 日本陸軍中尉 浅田真二
米軍司令官スプルーアンス大将殿
スプルーアンス大将は終戦後全米各地を講演しました。
講演では必ず話していたことがあります
アメリカの青年達よ。東洋には素晴らしい国があります。
それは日本だ、日本には君達が想像もつかない立派な青年がいる。
ああいう青年がいたら、やがて日本は世界の盟主になるに違いない。奮起しろ・・・と。

敗戦直後、日本はボロボロになり、人々は飢えていました。

12月昭和天皇は松村農林大臣に多数の餓死者を出すような事は耐え難いと、皇室の御物の目録を渡され「これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を1日でも凌ぐようにしたい」とおっしゃりました。

その後、幣原首相がマッカーサーに御物の目録を差し出すと、感激したマッカーサーは「自分が現在の任務についている以上は、断じて日本の国民の中に餓死者出すようなことはさせぬ。必ず本国から食糧を移入する方法を講ずる。」と請け会いました。
松村農林大臣は「三代回顧録」に、これまで責任者の私はもちろん首相,外務大臣がお百度を踏んで,文字通り一生懸命に懇願したが、決して承諾の色をみせなかったのに。陛下の国民を思うお心持ち打たれて即刻絶対に餓死者はださないから,陛下も安心されるようにというのだ。それからはどんどんアメリカ本国からの食糧が移入され、食糧危機はかいひされたと紀されている。

昭和天皇の国民を思う御心が、マッカーサーや大臣たちの心を動かし、餓えた日本国民に食糧が届けられたのです。それから6年後の1951年4月マッカーサーアメリカに帰国することになります。日本の新聞にはマッカーサーへの感謝を綴った広告がならびます。沿道には見送りの日本人が20万人も押し寄せました。
1955年安保条約改定にむけダレス国務長官と会談するためアメリカに旅立つことになった重光外相は、昭和天皇に拝謁しました。「もしマッカーサー元帥と会合の機会があらば、自分は米国人の友情を忘れたことはない。米国との友好関係は終始重んずるところである。特に元帥の友情を常に感謝して、その健康を祈っている、と伝えてもらいたい。」重光外相は訪米するとマッカーサーを訪ね、昭和天皇のお言葉伝えました。マッカーサーは「私は陛下にお会いして以来戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚れないのである。」
さらにマッカーサーは初めて会見した日を回想し、昭和天皇が「自分はどうなっても構わない、自分は全責任を負う」と述べられたことに触れて、私はこれを聞いたときに興奮のあまり陛下にキスをしようとしたくらいです。もし国の罪を償うことができれば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この国の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした。陛下はご自身に対していまだかつて恩恵を私に要請したことはありませんでした。とともに決して、その尊厳を傷つけた行為にでたこともありませんでした。
どうか日本にお帰りの上は自分の温かい挨拶を陛下にお伝えください。その際自分の心からなる尊敬の念をも同時に捧げてください。

終わります。

マッカーサーに会った昭和天皇はこう語ります。

『私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、全責任をとります。日本の名において

なされた全ての軍事指揮官、軍人及び政治家の行為に対しても、直接に責任を負います。私の運命について、貴下の判断が如何様なものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに全ての事を進めて頂きたい。私は、全責任を負います。』

この言葉にマッカーサーは驚きました。他の敗戦国の国王と同様、昭和天皇が命乞いに来るだろうと考えていました。世界の歴史を見ても、自らの命と引き換えに自国民を救おうとした国王はいなかったのです。

マッカーサーははこの時の衝撃と感動を自身の回想記にこう記しています。

『死を伴う程の責任、それも私の知り尽くしている諸事情に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない責任までも引き受けようとされた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までも揺り動かされた。私はその瞬間、眼前にいる天皇が、個人の資格においても、日本における最高の紳士であると思った。』昭和天皇の言葉を受けたマッカーサーは次のように返答します。

『私は陛下に感謝を申し上げたい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進んでいるのも、これ全て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも陛下のお力を乞わねば成らぬことが多い。どうかよろしくお願いしたい。』

マッカーサーは立ち上がって、昭和天皇の前へ進み、手を握りしめた。

『私は初めて神の如き帝王を見た』と述べました。わずか37分の会見でしたが、マッカーサー昭和天皇に対する態度は180度変わりました。会見前はふぞりかえっているような態度をとっていたのが会見後には昭和天皇のやや後ろを歩くような敬愛で柔和な態度で会場から出てきました。会見後マッカーサーは予定を変更して自ら玄関まで見送りました。当時ソ連アメリカ本国では、天皇を処刑すべきとの主張がありましたが、マッカーサーはこれらの意見を退け、自ら天皇助命の先頭に立ったのでした。

 

1945年8月15日、日本は敗北を受け入れ、昭和天皇による玉音放送をもって、ポツダム宣言受諾を表明。大東亜戦争終結しました。その玉音放送で読まれた文章の中に

「耐え難きを耐え忍び難きを忍び」という日本の復興についての御言葉はとても有名ですが、「皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ」という御言葉を使われた事はご存じでしょうか?

天津神国津神)からお預かりした国民(おおみたから)と歴代天皇が守り続けてきた

祈りを戦争という形で失ってしまった。そのことを私はどのように天照太御神と歴代

天賞に謝罪すればよいのでしょうか、といった悲痛と苦悩が感じられるものでした。

8月30日に日本に進駐した連合国最高司令官総司令部(GHQ)ダグラスマッカーサー元帥は、千代田区の第一生命ビルにGHQ総司令部を設け皇室を見おろす6階の

執務室で日本の占領政策に着手します。9月27日敗戦国の国王となった昭和天皇

敵将マッカーサーに会うために、初めてアメリカ大使館公邸を訪れます。しかし玄関に出迎えたのは、わずか二人の副官だけでした。

最近、コロナウイルスとか桜を見る会などストレスが溜まるニュースが多いです。

気分転換にほっと一息入れませんか 本や新聞ユなどで見たちょっと良い話を、

少しずつ書きたいと思います。2月23日は天皇陛下の誕生日です。

次回は昭和天皇とGHQの関係を書きたいと思います。