敗戦直後、日本はボロボロになり、人々は飢えていました。

12月昭和天皇は松村農林大臣に多数の餓死者を出すような事は耐え難いと、皇室の御物の目録を渡され「これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を1日でも凌ぐようにしたい」とおっしゃりました。

その後、幣原首相がマッカーサーに御物の目録を差し出すと、感激したマッカーサーは「自分が現在の任務についている以上は、断じて日本の国民の中に餓死者出すようなことはさせぬ。必ず本国から食糧を移入する方法を講ずる。」と請け会いました。
松村農林大臣は「三代回顧録」に、これまで責任者の私はもちろん首相,外務大臣がお百度を踏んで,文字通り一生懸命に懇願したが、決して承諾の色をみせなかったのに。陛下の国民を思うお心持ち打たれて即刻絶対に餓死者はださないから,陛下も安心されるようにというのだ。それからはどんどんアメリカ本国からの食糧が移入され、食糧危機はかいひされたと紀されている。

昭和天皇の国民を思う御心が、マッカーサーや大臣たちの心を動かし、餓えた日本国民に食糧が届けられたのです。それから6年後の1951年4月マッカーサーアメリカに帰国することになります。日本の新聞にはマッカーサーへの感謝を綴った広告がならびます。沿道には見送りの日本人が20万人も押し寄せました。
1955年安保条約改定にむけダレス国務長官と会談するためアメリカに旅立つことになった重光外相は、昭和天皇に拝謁しました。「もしマッカーサー元帥と会合の機会があらば、自分は米国人の友情を忘れたことはない。米国との友好関係は終始重んずるところである。特に元帥の友情を常に感謝して、その健康を祈っている、と伝えてもらいたい。」重光外相は訪米するとマッカーサーを訪ね、昭和天皇のお言葉伝えました。マッカーサーは「私は陛下にお会いして以来戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚れないのである。」
さらにマッカーサーは初めて会見した日を回想し、昭和天皇が「自分はどうなっても構わない、自分は全責任を負う」と述べられたことに触れて、私はこれを聞いたときに興奮のあまり陛下にキスをしようとしたくらいです。もし国の罪を償うことができれば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この国の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした。陛下はご自身に対していまだかつて恩恵を私に要請したことはありませんでした。とともに決して、その尊厳を傷つけた行為にでたこともありませんでした。
どうか日本にお帰りの上は自分の温かい挨拶を陛下にお伝えください。その際自分の心からなる尊敬の念をも同時に捧げてください。

終わります。